昔の写真からたどる天城の記憶
昭和10年頃、天城周辺で撮影された小さな古い写真が残っています。
写真の所有者は青柿大メンバーAさん。撮影されたのはAさんのご主人の叔父にあたる方で、明治20年頃生まれとのことです。その方は当時としては珍しくカメラを所有しており、天城の風景を何枚も撮影していました。
名刺ほどの大きさのその写真を同じく青柿大メンバーのHさんがスキャンをし、画像をパソコンで調整しました。
山歩きが好きで、地域の歴史、ジオについて調べているAさんが、昔の写真と同じ場所で平成29年(2017年)に撮影した写真、さらに現在(令和8年・2026年)の写真を撮り、数々の書籍や新聞などの史料を調べ、資料を作成しました。
古い写真と現在の風景を比べることで、Aさんには色々な疑問が出てきました。
そこで今回から数回に渡り青柿大では、この天城の新旧写真とAさん作成の資料を元に、メンバーの皆さんの話を聞きながら「昔の天城」をたどっていきます。

昭和5年昭和天皇行幸記念絵葉書

平成29年撮影 八丁池
かつては賑わいがあった八丁池
天城山の奥深くにある八丁池。
池の周囲が八丁(約870m)あることから名付けられたといわれていますが、実際の周囲は約5丁、約560mほどです。
かつては火口湖と考えられていましたが、その後の調査によって、活断層のずれによって谷の最奥部が窪地となり、そこに水がたまってできた「断層湖」であることが分かりました。
八丁池については、昭和5年昭和天皇行幸の際の絵葉書との比較をしました。昭和5年6月2日、八丁池のモリアオガエルの視察にいらした昭和天皇。その2年後の昭和7年6月2日には、行幸を記念して「天蹕留蹤碑(てんひつりゅうしゅうのひ)」が建立されました。「天皇がこの地に足を留められた」という意味の碑です。
この碑の石は野畔(のぐろ)から、そりに載せて馬に引かせて運んだと伝えられています。

昭和10年撮影 天蹕留蹤碑
昭和37年に八丁池の湖畔に山小屋が建てられましたが、特別保護区であることや昭和の森対策委員会の方針などから、昭和52年に廃止され、約15年間の営業となりました。
当時、山小屋に泊まったことがあるというメンバーによると、宿泊施設には2段ベッドがあり、宿泊料金も安かったそうです。
八丁池の水は飲み水には適さなかったため、山小屋には、営林署の職員が毎日、水を歩荷して運んでいたそうです。
山小屋ができて数年後、八丁池のモリアオガエルが急激に減少。人の手が自然環境に加わったことが原因の一つではないかと推察され、山小屋が廃止された後、モリアオガエルの卵は少しずつ増えていったそうです。
八丁池は冬になると自然のスケートリンクとなったため、スケートを楽しむ人々でにぎわっていた時代もありました。

天城山隧道天城側入口 令和8年7月撮影
天城山隧道
八丁池から南へ進むと、天城山隧道、通称「旧天城トンネル」があります。
延長445.5m、幅4.1m、高さ3.15mのトンネルで、平成13年(2001年)6月には、道路部門として初めて国の重要文化財に指定されました。
明治33年(1900年)に着工し、明治34年8月26日に貫通式。天城側と河津側の両方から掘り進め、両方の坑道の誤差は3000分の1だったという記録が残っています。
明治38年(1905年)、トンネルが開通。総工費は103,016円、工事により12名の方が殉職しました。
トンネルには大仁の吉田石が使われ、「切り石巻工法」という石を一つひとつ積み上げる方法で造られました。使用された石は35,000個以上ともいわれています。
「吉田石」の疑問
この石材について、資料には「大仁の吉田石」とありますが、大仁の「吉田」という場所を調べても、石丁場を確認することができませんでした。
吉田に石材屋があり、実際の石丁場は城山の下ではないかとのこと。また、吉田が飛び地だったという可能性も指摘されました。
城山の麓と考えると、小室石、六方石、棒石と呼ばれる伊豆石が候補になりますが、トンネルに使用する石材としては小さいのではないかという疑問も上がりました。
何万個もの石を大仁から運んだのか?という疑問もありましたが、馬力で石材を運んだという資料もあるそうです。
大変な技術を要する石積みですが、石工たちが、どこで作業をしていたのかというと、野畔(のぐろ)だったと考えられているそうです。

左:昭和10年撮影 右:平成29年撮影 天城山隧道天城側
天城を走った最初期のバス
天城の交通を大きく変えたのがバスです。
大正5年(1916年)2月、現在の東海バスの前身となる「下田自動車」が創立。下田自動車は、集合馬車に代わる交通手段としてアメリカ製の自動車「チャンドラー」を導入しました。幌型6人乗りで、4,400cc・6気筒ガソリンエンジンを搭載していました。
当時の天城峠は未舗装で険しい山道だったため、パワーのあるチャンドラーが導入されたと考えられています。
下田~大仁間の路線は、日本のバス史の中でも非常に早い時期に開業した路線の一つで、馬車では約10時間かかっていたところ、バスでは2時間半~3時間ほどに短縮されました。
井上靖の『しろばんば』には、大正8年4月最初のバスが湯ヶ島へ入って時に、村長をはじめ村人たちがバスを迎え、小学生も授業を早く切り上げて街道に並んだ様子が描かれています。
昭和の始めから、バスガイドさんが同乗し、各地の名所の説明、東海バスの唄を唄ったということで、その唄をAさんが歌ってくれました。
写真に写るバスは何型?
今回の古写真にも、天城山隧道を走るバスが写っています。
2台のバスが写っており、車両の前方から煙が出ているようにも見えるため、木炭バスではないか?という話がありました。
写真に写るバスの車種については、現在、東海バスにも問い合わせをしています。
峠の茶屋はいつまであったのか?
もう一つ、出てきた疑問が「茶屋」です。
天城山隧道の南北の入口付近には、かつて旅人が休憩する茶屋がありました。
大正4年(1915年)の記録には、トンネル内が暗かったので、入口の茶屋で提灯を借り、ローソク代を払ってトンネルを通り、反対側の出口の茶屋に返す仕組みがあったことが記されています。
天城の茶屋は、文学作品にも登場しており、明治42年(1909年)の島崎藤村『伊豆の旅』では、島崎藤村、蒲原有明、田山花袋、武林無想庵の4人で大仁から下田へ行った際に、茶屋の老婦と話した様子が描かれています。
そして大正7年(1918年)には川端康成が天城を歩き、『伊豆の踊子』に登場する茶屋のモデルとなった場所を訪れています。
ところが、昭和元年(1926年)の川端康成『伊豆天城』では、北口の茶屋はなくなっていたと書かれています。
このことから、少なくとも明治42年から大正7年頃までは茶屋が存在し、昭和元年には姿を消していたと考えられます。
自動車が通行するようになると、茶屋が担っていた郵便物の交換などの役割もなくなり、茶屋は廃止されたとされています。
また、北口の茶屋の写真は新聞や書籍に載っているのですが、南口のものがなく、探しているところです。

左:昭和10年撮影 右:平成29年撮影 水生地
水生地
天城山隧道をさらに南へ進むと水生地(すいしょうじ)があります。
昔は「砂のいり」と呼ばれていた場所でしたが、天然氷が作られるようになったことから、水生地と呼ばれるようになったといわれています。
大正初期から昭和初期にかけて、天城の厳しい寒さを利用し、人工的に天然氷を製造し「氷室」という倉庫に夏の需要期まで保管しておく貯蔵法がおこなわれていました。
冬、深さ50cmほどの人工池に水を張ると、一晩で約10cmの厚さの氷ができ、それを水底へ沈め、さらに新しくできた氷を同じように沈めることを繰り返して厚い氷を作ったということです。
できた氷は滑り板を使って氷室まで運ばれ、オガクズの中に埋めて夏まで保存されました。

平成24年撮影 氷室

平成24年撮影 製氷用の人工池
現在、残念なことに氷室は崩れてしまっていますが、人工池は残っています。
人工池は川の近くにあるとのことですが、氷を滑らせて運ぶのであれば、氷室の位置は人工池より低くなければなりません。
今度、実際に現地を歩いて位置関係を確認しよう、ということになりました。

昭和10年撮影 白橋

平成29年撮影 白橋
白橋と松本清張『天城越え』
天城山隧道から約1kmほど手前、本谷川に架かる橋は、松本清張の小説『天城越え』の舞台として知られている白橋(しらはし)です。
小説の中ではさきほどの氷室の「オガクズ」が物語を動かすポイントになります。
寒天橋 短期間の産業が残した名前
天城山隧道を南へ下り、河津川に架かる橋が寒天橋で、昔は「川のいり」と呼ばれていた場所です。
橋の上流に、南伊豆で採取した天草を使って寒天を製造する工場があったことから、寒天橋という名が付きました。
寒天製造を始めたのは、函南町出身の仁田常種氏で、ここで製造した寒天は第1回・第2回の内国勧業博覧会にも出品されました。
しかし、操業開始からわずか5~6年ほどで廃止されたとされています。
短期間の産業だったにもかかわらず、「寒天」という名前が橋の名前として残り、さらにバス停の名前にもなっていることは不思議だ、とメンバーから感想がありました。
一枚の写真から始まる天城の歴史調査
古い写真を見ると、「この建物は何だろう」「このバスは何型だろう」という疑問が生まれます。
今回の新旧写真比較は、単に昔と今の景色を比べるだけではありません。
Aさんが史料から調べたことに、さらにみなさんから話を聞くことで、失われつつある天城の歴史をもう一度たどる試みです。
これから数回に渡ってこの天城の新旧写真比較をおこなっていきます。