湯ヶ島道の歴史をたどる
地域の方が先生になって、お互いに学び合う場である青羽根柿木大学。今回は、狩野城ガイドクラブなどで活躍をしているHさんが「湯ヶ島道の歴史」をテーマにして、講義をおこないました。
かつて「湯ヶ島道」あるいは「天城道」と呼ばれ、多くの旅人が行き交った重要な場所である現在の下田街道天城周辺。その歴史を奈良時代から近代まで、時系列でたどっていきました。
奈良時代から始まる湯ヶ島道の歴史
奈良時代に行基が吉奈に善名寺を開いたという記録から始まった今回のお話。この地域にはいつ頃から人々が住み始め、狩野城周辺にどのように人が集まってきたのか。また、歴史上の人物がどのようにこの地を訪れたのかなど、Hさんがさまざまな文献をもとに作成した資料をもとに、時代ごとの出来事を追っていきました。
室町時代には、すでに天城越えの宿に関する記録が残されており、当時から多くの人々がこの街道を利用していたことがうかがえます。
寛政5年(1793年)には、現在、青柿大でお馴染みとなった東海大学の片岡先生が、絵図に描かれた風景がどこなのかを検証する取り組みを進められている「公余探勝図」が描かれました。
続く寛政12年(1800年)には、伊豆国の代表的な地誌である『豆州志稿』に「三階瀑布」として、現在の浄蓮の滝が記されています。
現在「浄蓮の滝」として親しまれている滝は、もともとは「上の滝」「中の滝」「下の滝」の三つから成る「三階滝」でした。現在一般に浄蓮の滝と呼ばれているのは「下の滝」です。
「中の滝」は明治30年6月の豪雨によって崩壊し、その頃には、浄蓮の滝の名前の由来になった浄蓮寺もすでに廃寺となっていたという記録があります。
1801年と1815年には、伊能忠敬測量隊が伊豆を測量しました。
1819年には、梨本村の名主・板垣仙蔵が二本杉峠道を整備したという記録があります。
さらに1824年の『甲甲旅日記』には、梨本から約4kmの場所に茶屋があり、その周辺にはオオカミが生息していたことが記されています。当時の天城には、まだオオカミがいたことが分かる貴重な記録です。
1857年には、アメリカ総領事ハリスが天城越えをして湯ヶ島に宿泊し、帰路は船を利用したという記録が残っています。
1889年には東海道線開通(現在の御殿場線、東海道本線が開通したのは昭和9年)。
1905年には旧天城トンネルが開通し、天城越えは大きく変わりました。
当時の街道の様子を知る資料として、川端康成の短編『有難う』を原作とした映画『有りがたうさん』(昭和12年公開)を観るといいよというメンバーからの助言がありました。

「轎中雑識 浄蓮ノ瀑」から分かること
浄蓮の滝資料館に展示されている「轎中雑識 浄蓮ノ瀑」について、Hさんがご自身で解読したものを紹介してくださいました。
当時は現在のように滝へ下る遊歩道はなく、村の子どもに案内を頼んで滝まで行ったことが記されています。
道が整備されたことで、浄蓮の滝は観光地として発展していったことが分かります。
天皇ゆかりの伊豆
皇室と伊豆との関わりについても紹介がありました。
狩野川沿い、水晶山のふもとには、大正天皇が皇太子時代に鵜飼を見学したことを記念する「鵜飼天覧御所碑」が建てられています。
修善寺の御幸橋も、大正天皇の行幸にちなんで名付けられた橋です。大正13年に完成したアーチ橋で、老朽化のため2018年に架け替えられたものの、珍しい工法が用いられていることから、歩行者専用の橋としてその姿を残しています。

昭和天皇も伊豆を巡幸し、天城峠から八丁池へ向かう道は現在も「上り御幸歩道」と呼ばれています。
メンバーからは、行幸に合わせて湯ヶ島小学校は建て替えられ、校舎も移転したこと、学校には昭和天皇が使用した「御座椅子」が長年保存され、その前を通る際には児童も先生も頭を下げていたというエピソードが紹介されました。
今回の講義では、一つの街道の歴史をたどることで、伊豆の歴史や文化、人々の暮らしの変遷を知ることができました。地域に残る資料や伝承を改めて見直すことで、新たな発見や疑問が生まれる、大変興味深い講義となりました。Hさん、ありがとうございます!