静岡大学東部サテライトだより

静岡大学東部サテライト「三余塾」の記録・お知らせ

20250818 第20回青羽根柿木歴史大学

牧之郷にある加藤景廉一族の墓と言われている五輪塔

東部サテライトのある伊豆市青羽根周辺、狩野氏にまつわる歴史を中心に地域の方が先生となってお互いに学び合っている青羽根柿木歴史大学(青柿大)。8/3に加藤景廉公供養祭に参加をしたのですが、その時の墓前祭をおこなった五輪塔はお墓なのかどうかという話になりました。
お墓は城(岩村城)を築いた岐阜県恵那市にあるのではないか?納骨されていなくてもお墓なのか?そもそもこの五輪塔狩野川台風で流されたものを集めてきたものであり、その前に墓があったと言われている金剛寺はどこにあったのか?と?だらけでした。
また、牧之郷のお寺(どこかは不明)に牛頭(ごず)観音があるという話になりました。馬頭観音はよく聞きますが、牛頭観音については聞いたことがない人も多く、頭上に牛の頭をのせた観音様のようなのですが、京都八坂神社の牛頭天王信仰と関係があるとかないとか…。
他にも、近くで牛頭観音見た!という情報があり、見てみたいなと思いました。

青柿大は基本的に、メンバーのMさんがつくった資料を読み合わせることで、参加者の質問や持っている情報を出し合うスタイルなのですが、「狩野氏の城下町(青羽根村編)」の読み合わせが終わり、柿木村編へ入りました。
狩野城跡は、青羽根という地区と柿木という地区にまたがっていることから、柿木は青羽根と同じく、狩野氏にゆかりのある地域です。

柿木村の歴史ということで、古い記録から進めていきます。
平安時代、建久2年(西暦1191年)に、狩野城の西方向に東垣土(かいどう)、柿木川をまたいで西垣土があり、当時からその地名があったという記録があったということで、この「垣土」についての話になりました。
「垣内」と書いて「かいど、かいと」と読むところもあり、垣で囲まれた曲輪(くるわ)や集落、開墾した場所などを表すそうです。
また、海道と街道の違いや「柿木の西海道を歩くと数沢(かっさわ)に出る」という話になったことから、西垣土(西街道)というのはポイント(点)なのか、道(線)なのか?という話になり、民俗学者柳田國男によると、垣内(カイト)は基本的には水田や集落といったポイントで、家から道にでる通路のことを指すところもあるとのことでした。

鎌倉時代、正元元年(西暦1260年)には、現在の大龍寺付近に仲村集落ができたという記録があり、大龍寺の前には昔、街道が通っていたことが馬頭観音があったことから分かるとのことでした。

南北朝時代、正平15年(西暦1361年)に古屋敷村が開墾されたという記録があり、そこには狩野氏の最奥の館があったと伝えられているが場所が分からないとのことでした。
柿木は達磨山の噴出物からできた大地のため、田んぼをつくることが難しかったが、湧き水が出ているところにはその水を利用して田んぼを作り、その周囲に屋敷があったと考えると、そうしたことが場所特定のヒントになるかもしれないとのことでした。

 

狩野道一の墓がある?「休み堂」跡の下湯船公会堂

午後は狩野道一の墓があると言われている奥の院の下湯舟公会堂(休み堂跡)へ。
以前、4月18の青柿大フィールドワークでの狩野道一の墓探しでは、豆州志稿に書かれていた伊豆市大平の中島を探しましたが全く分からず、再度調べたところ、現在下湯船公民館となっている「休み堂」というところにあると書かれている資料があったとのことでした。

修禅寺から奥の院に向かって車で5分ほどの場所にある下湯船公民館。この正面には写真のようにお地蔵さんがならんでおり、説明の看板には「昭和30年まではお堂があり何体かの石仏があったが、お堂の取り壊しとともに多くは不明となった。六角柱の一面ごとにお地蔵さんが彫られた

回転六角六地蔵、回すことはできなそう…。

は残っており、回転させることでお参りするも珍しいもの」と書かれていました。
残念ながら狩野道一の墓は見つけられず、建物の管理者の方にお聞きしても分からないとのことでした。