伊豆半島とその周辺は、さまざまな自然災害が頻発する一方で、自然現象がもたらした地形・景観・産物が、そこに暮らす人々に大きな恵みを与えてきました。伊豆半島の自然の恵みと災害の歴史を振り返るとともに、それらが地域の社会基盤や文化形成に与えた影響を最新の研究成果にもとづいて学ぶ全5回の講座を東部サテライトで開催する運びとなりました。
9月30日に第一回目を開講。「伊豆の海岸地形・地殻変動・考古学〜能登・房総との比較」というテーマで、以下のプログラムでの講演をおこないました。
小山真人(静岡大学防災総合センター)「伊豆半島の地殻変動史と火山活動史」
宍倉正展・行谷佑一(産業技術総合研究所地質調査総合センター)「伊豆東部の海岸地形と地殻変動」
金子浩之(伊東市教育委員会)「伊豆の古代遺跡の分布的特徴」
「伊豆半島の地殻変動史と火山活動史」小山真人(静岡大学防災総合センター)
特に約1万1500年前から現在、縄文時代早期以降の出来事に焦点を当て、自然の営みが人間の歴史や文化に与えた影響について考える。古墳時代前期の遺跡、富士宮市丸ヶ谷戸遺跡は富士山の方を向いていることは、文字のない時代ではあったがなんらかの意味は必ずあったと思われる。下田市の恵比須島は、海底火山の噴火と地殻変動による隆起がもたらした造形、古代の祭祀遺跡、近世の石丁場遺跡という自然と人間の活動が重なり合ったジオパークの複合遺産ともいえるすごい場所。河津町の観音山には、海底火山の地層の浸食の度合いの違いによってできたくぼみに石仏が並んでいる場所がある。
今回は、火山噴火が人間に与えた影響について詳しく考察する。伊豆東部火山群では、4000年前には大室山が噴火し、伊豆高原、城ヶ崎海岸を作った。これに人間の生活は影響を受けている。伊豆半島全体に土石流や火山灰などの危機的な状況を与えた噴火は、3200年前のカワゴ平の噴火。伊豆東部火山群では、今でも噴火が続いており、地下のマグマ溜まりから時々割れ目噴火が発生している。マグマの活動にともない、周囲の地面が隆起する。1978年以降、伊東付近では目立った隆起が続いている。それ以前の1930年の伊東沖群発地震、明治元年頃や江戸末期(1816年)の記録もあるが、遡ることができるのはそこまでで詳細は分からない。詳細を知るには、直接的な証拠、伊豆東海岸に残る波に削られたテラス状の地形の年代を測定することで、隆起の証拠や火山活動の痕跡を見つけられると考えており、次に講義をする産総研宍倉さん、行谷さん、金子さんと調査をしてきた。調査の手法は、隆起の年代を特定するために、生物の化石などを調べる。この研究成果を昨年論文として国際学術雑誌に発表。今日はそのお披露目会でもある。伊豆半島は、東側は隆起、西は駿河トラフにおそらく引きずり込まれて沈降。伊豆半島をはさんだ本州の両側(静岡市側と房総半島側)は全般的に隆起傾向にある。伊豆半島には活断層があり、活断層が動くと局地的な隆起、沈降があるので、これも考えなければならない。
能登半島も海底から隆起してきた場所。1月の能登半島地震でも大きく隆起した。伊豆半島と能登半島、両者を比較すると、地形や地震のパターンが似ていること、歴史的にも文化的にも似ていることが分かる。能登半島には有名な縄文遺跡、真脇遺跡がある。日本の漁業の発祥地とも言われ、イルカ漁を組織的におこなっていた証拠が残っている非常に重要な遺跡である。能登半島を調べることは、伊豆半島にとっても非常に重要なので、次に宍倉さんの話す能登半島の報告にも注目してほしい。
「伊豆東部の海岸地形と地殻変動」宍倉正展・行谷佑一(産業技術総合研究所地質調査総合センター)
昨年、論文を4人で出した。海岸の隆起について専門的に研究してきた視点から、能登、房総、伊豆についてを話す。まず、今年のお正月に起きた能登半島地震では、火災、液状化、斜面崩壊、土石流、津波、地殻変動など、地震で想定されるほぼすべての災害が発生した。直下型で、震源が海にあったため、津波も発生、揺れも非常に大きく、複合的な被害が生じた。その中でも、地殻変動、地盤の隆起についてお話する。私が地震から1週間後に現地で撮影した約4m隆起した港の写真(下記ホームページ参照)。
www.gsj.jpその壁面にはびっしりとフジツボがくっついていた。この隆起は海底の活断層によるもので、断層自体は陸のすぐ沖合にあり、陸側に傾斜した逆断層が動くことで、地震波が直接陸地に伝わり、揺れが非常に大きくなった。この隆起によって、海岸段丘が形成された。17年前から能登半島で調査を続けてきたが、17年前に撮影した写真と地震後に撮った写真を比べると、明らかに地形が変化している。この段丘は、今回の地震で初めてできたわけではなく、過去にも3回の隆起があったことが確認されている。年代はまだわかっていないが、一般的には縄文海進の頃以降に形成されたと考えられている。過去6000年以内に3回隆起があり、千数百年ごとに起こっていた可能性がある。こうした段丘を見れば、今後どのような地震が起こるかの想定が可能。
次に、101年前の大正関東地震についても、能登半島地震と同様に様々な災害が発生。関東地震も、海溝型地震でありながら、震源域が陸地の直下にあったため、非常に強い揺れが生じた。当時の地盤の隆起を示す写真を見ると、波食棚が干上がった様子がわかる。関東地震の際の地盤の上下変動を当時、地震前と後に測量して比較し、作成された地図を見ると、相模湾や大磯、房総半島南部にかけて隆起が見られ、一方、特に丹沢の周辺では沈降が見られる。東伊豆のエリアでは、真鶴で80cm、初島で約1mの隆起があったことがわかるが、伊東周辺はほとんど隆起していない。関東地震では隆起している地域とそうでない地域があり、この情報は今後の災害予測に非常に重要。プレートの動きについて、普段は陸側プレートと海洋プレートが接触しており、固着した状態で沈み込んでいく。このとき、ひずみがたまってやがて地震が発生。プレートが跳ね上がると、隆起が生じるが、この隆起が起こる場所は相模トラフ付近、大磯や房総半島に位置している。能登半島で見られた逆断層と同じ考え方で、直下でずれた後、上に乗っている上盤が隆起する。
こういった隆起の痕跡について、房総半島で調査を続けており、見物海岸には、2段の明瞭な段丘がある。下の段は101年前の大正関東地震で干上がった波食棚、その背後には一回前の関東地震、1703年元禄の関東地震で干上がった波食棚が存在する。大正地震のときは1.5m隆起、元禄時代の隆起は3m。生物の痕跡からも隆起を知ることができる。特にゴカイの仲間である「ヤッコカンザシ」という生物は、岩礁にくっつき生息する場所が潮の満ち引きする場所であることから、過去の平均海面の位置を示す有効な指標となっている。さらに昔に遡ると、房総では過去6000年間で大まかに4つの段に分けられる段丘が形成されているが、詳しく見ると15段もあり、関東地震が平均して400年ごとに発生していることがわかる。
一方で、東伊豆には房総や大磯のような海成段丘の発達は見られず、唯一初島でのみ、段丘が発達していることが確認されている。このためこれまで、伊東や熱海の海岸はあまり注目していなかったが、2009年、小山先生から金子さんが発見した伊東の露頭に隆起の痕跡があるという知らせがあって、見に行ったところ岩礁にヤッコカンザシやフジツボがびっしりと固着しているのを見て驚いた。
これについて、昨年発表した論文にまとめた。伊東の沿岸のヤッコカンザシやフジツボから分かる隆起痕跡の位置、高さ、年代をまとめたデータから4つの隆起のイベントがあったことが分かる。隆起痕跡の高さ約3m前後がゾーン1で西暦480~886年、約2m前後がゾーン2で西暦1272~1730年、、現在の海面に近い場所をゾーン3で西暦1831年以降として区分。上部にはゾーン0を設けており、最高で3000年前のもの。ゾーン0から1までが1800年、ゾーン1から2が800年、2から3が400年とだんだん短くなっている。
ゾーン3の過去200年以内に起きた1m程度の隆起について注目すると、この期間に測地のデータでは関東地震の際には隆起がほとんど見られず、1930年の北伊豆地震でも伊東地域では隆起が見られない。他の要因として、地殻変動は群発地震や地下のマグマ活動によって引き起こされたことが示唆される。隆起のメカニズムが、能登半島や房総のような突発的なものとは異なり、マグマ活動によるものであることは非常に興味深い。測地データのない年代、過去の群発地震活動を振り返ると、西暦1868/70年の歴史的な地震活動もゾーン3の隆起に影響を与えたかもしれない。
ゾーン2やゾーン1に関しては、1703年元禄の地震、1293年の鎌倉地震が隆起をもたらした候補となるが、記録が不足しているので関連性を示すのが難しくなる。一方で、伊豆沖合には西相模湾断裂が提唱されており、この断裂が伊東沖合までおよんでいれば隆起しうる。モデル計算によると約40cmの隆起が予測される。ゾーン1、2、3はいずれも、関東地震や北伊豆断層帯の活動、さらにはマグマ活動といった相模湾西側の地殻活動が活発化する時期を示している可能性があると考えられる。
さらに火山群の噴火時期とも関連付けて調べると、大室山の噴火は約4000年前だが、ゾーン0は3000年前頃カワゴ平の噴火と一致する。つまり、東伊豆では3000年前から隆起が始まり、その後の火山活動に関連して隆起が加速している可能性がある。伊豆半島全体では、特に東側が隆起し、西側が沈降している。縄文海進の影響を受けた沖積層の堆積物が普通は6000年前にピークを迎えるが、伊豆では3000年前がピークであり、本州のほかの地域と明らかに違う。下田にも3000年前の隆起痕跡がある。伊豆半島はカワゴ平噴火などの火山活動により、東側は隆起に転じてきた可能性がある。
2009年から始まった隆起痕跡の調査がここまで進んできたことを嬉しく思い、今後も調査を続けていきたいと思う。
宍倉さんと行谷さんが発表した「ヤッコカンザシがくっついていた洞窟」は、自分が散歩中に発見。真っ白で貝殻のようなものがついていたので、縄文海進の跡だと思い、小山先生に相談。宍倉さんと一緒に現場に行き年代測定をおこなうと鎌倉時代や室町時代といった結果であった。地盤の隆起は、地震だけでなく、マグマの貫入によるものもあるということを小山先生から示唆していただいた。その見極めが重要だが、日本史の中に隆起や噴火についてをうまく位置づけていかないと正しい位置づけにはならないと思う。
今日は、縄文海進や大室山、カワゴ平の噴火が縄文人に与えた影響について、遺跡の分布から考えてみたい。
弥生時代前半期の遺跡は伊豆半島内にはほとんど存在しない。一方で縄文時代の遺跡は非常に多く存在する。縄文時代の遺跡と言えば伊豆半島までは濃密で、富士川を境に県中西部にはほぼ存在せず、神奈川、東京、千葉には多くの縄文時代の遺跡がある。これは西日本にはほとんど縄文人がほとんどいないという極端な見方もできる。ただし、縄文後期以降には、伊豆の縄文人もほぼいなくなり、東日本全体も縄文人は減少してしまう。一つの可能性として、カワゴ平や大室山の噴火の影響もあるが、東日本全体の縄文人口を減少させるほどの影響を与えたとは言えない。
旧石器時代の遺跡は箱根や愛鷹山麓、富士山の裾野に集中。一方、伊豆半島の旧石器時代の遺跡については、熱海や伊東、河津に少しだけある。富士山、愛鷹山、箱根山に旧石器時代の遺跡が集中しているのは狩りに適しているからと言われている。
縄文時代の遺跡として、伊豆市大平の大塚遺跡がある。約10畳分の大きさで、内部に河原石を敷き詰めてある「配石遺構」。大塚遺跡のような拠点的な集落と、数件しかない小さな集落が存在し、社会的な階層がすでに形成されていた可能性がある。縄文後期になると、伊豆には人がほぼいなくなるが、カワゴ平や大室山の噴火などが部分的には影響していると考えられる。
弥生時代の遺跡については、東海道沿いに散在しているように見える。縄文人はほぼ人口ゼロになっているため、弥生人はおそらく大陸から渡ってきた別系統の人々。実際には縄文人はこの段階で東北地方に生き残っており、東海道沿いに広がる弥生人は、新しい文化を持った人たちだ。弥生時代の遺跡の分布は、松崎、仁科、伊東、熱海など、私たちが現在住んでいる集落の起源になっているとも言える。弥生人は狩猟をおこなっていた縄文人と異なり、稲作をおこない、湧水の近くに集落を作っていた。
古墳時代の遺跡を考える際、古墳と集落を分けて考える必要がある。古墳の前身は弥生末期から古墳時代初期に築かれていた「方形周溝墓」。これは四角く溝で囲まれた墓で、河津町の姫宮遺跡など、伊豆半島中の集落に築かれていた。古墳時代の遺跡分布を見てみると、主要な古墳が東海道沿いに存在しているが、伊豆半島には本格的な古墳が少ないという現象が見られる。これは伊豆半島の大きな特色で、古墳の代わりに、古代の神社があった場所や神祀りをおこなった場所、祭祀遺跡が多く存在しており、こうした神祀りの文化の痕跡が非常に濃密に残っている。伊豆半島の発掘調査をおこなってきた中で、古墳時代の遺跡を掘ると、必ず祭祀の遺物が出土する。通常は、古墳の内部にしか存在しない高級品である銅鏡が一般的な集落から出土している。これは、伊豆半島に住む古墳時代の人々が神祀りに特化した祭祀集団だったのではないかと考えている。また、祭祀遺跡からは、酒を飲むためのおちょこのような小さな器も出土する。玉が多く出土するのも伊豆半島特有の現象。
古墳時代の伊豆半島の人々が祭祀集団であることは、後の時代、特に平安時代に大きな影響を与える。奈良や京都の朝廷の中に「神祇寮(じんぎりょう)」と呼ばれる神様を祀る役所ができ、伊豆半島の祭祀集団が高く評価され、そのメンバーに伊豆出身者が多く占められることになる。朝廷に入った人々は、特に天皇からの諮問に対し助言をおこなう役割を果たしていた。なかには遣唐使の一員として大陸に渡って帰り、神祇寮として活躍した人物もあり、この人は伊豆大島出身だったことが判明している。
古墳時代の遺跡が豊富にもかかわらず、奈良時代になると祭祀の痕跡は目立たなくなる。代わりに、伊豆国の国府が三島にあったと考えられ、古代の官僚システムが伊豆にも整えられる。国府は官僚たちの中心地として機能し、伊豆半島の各地域には、賀茂郡衙(南伊豆町青野川付近)、那賀郡衙(松崎町)、田方郡衙(三島市中島遺跡?)などが造られていた。
修禅寺や伊豆山、河津町南禅寺については、律令官制の中でできあがっていくお寺とみられる。これらの寺は国分寺などにいた僧侶たちの山林修行の場であったと考えられる。
平安時代には、宇佐美、河津、南伊豆の三か所に製鉄遺跡群が所在している。静岡県内では珍しい遺跡。宇佐美、河津は武士の発生と成長の要因になっているとみられる。平安後期に製鉄遺跡があるから武士が入ってくるとみている。南伊豆に関しては、蒲屋御厨(かばやのみくりや)として、紀伊半島の伊勢神宮領の荘園として成立しているので、武士とは距離がある。
最近、伊東で武士の発生に関係する重要な遺跡が発見された。「牧(まき)」と一文字墨で書かれた「墨書土器」が出ました。牧とは馬を増やす場所。奈良時代には伊東に牧が存在したことが確定したのは大発見。当時、公式な場面では必ず馬が使われていた。伊豆市では「牧之郷」がある。牧と製鉄の経営がおこなわれている場所が選ばれて武士が入ってくると考えられる。
もう一つの要素は港。鎌倉時代に展開するための重要な要素は、鉄と馬と港。この3つが集まるところに必ず大きな武士が成長する。(本日の会場、伊豆市には狩野城跡がある)狩野氏も「狩野牧」を持っている、狩野川河口に港があることも関係している。
この後には、武士の時代が到来するが、伊豆はこの時代の主人公たちを生み出した土地でもある。