
月に一度、地域の歴史を地域の人同士で学び合う「青羽根柿木歴史大学(通称:青柿大)」。11月18日の青柿大では、メンバーの住んでいる地域である柿木地区で、江戸時代中・後期に大規模な人形浄瑠璃公演がおこなわれていたという大発見について、昭和女子大学生活機構学専攻 三上芳範氏より「安永六年の本柿木村人形浄瑠璃興行―”定説”を覆した”幻”」というタイトルでお話をいただきました。また、この時の模様を木村さんがFMIS「集まれ!静大三余塾」でお話しました。
柿木の旧家に残されていた古文書から、江戸時代中・後期に柿木地区で人形浄瑠璃が演じられていたということが分かり、三上氏はその研究をしています。この人形浄瑠璃の興行は、我が国においても規模が大きいものであったとのことですが、地域に古くから住んでいる方もそのことを知っている方はおらず、みなさんその話を聞いてみたい!ということから、三上氏の講演会を青柿大として実施しました。
まず人形浄瑠璃とは、人形芝居と浄瑠璃が結びついた伝統芸能で、日本の人形浄瑠璃は、特に高度な技術と表現力を持つものとして知られています。日本の人形芝居には「一人遣い」と「三人遣い」があり、三人遣いは世界的に見ても非常に特殊で技術的にも難しいものですが、柿木でおこなわれていたのは「三人遣い」です。
具体的には、お金を出した記録と、お客さんの座席表といった史料から、安永六年1777年1月28日に本柿木村で人形浄瑠璃の興行があったことが分かりました。興行で演じられた演目について、「式三番叟」や「義経腰越状」といった作品名が記されており、ここまで分かっているケースは稀とのこと。講演タイトルの「定説を覆した」というのはどういうことかというと、「伊豆には人形浄瑠璃がなかった説」や「一村一藝能説(一つの村でおこなう芸能はそこですべてをまかなうという認識)」といったこれまでの地方芸能の定説が覆されたということでした。
地域の総合芸術としての人形浄瑠璃
本柿木村での興行は、仮設の劇場が建てられ、その規模や構造は当時としては非常に本格的なもので、「桟敷席」が設けられていたという記録が残っています。また、若者たちが中心となり議論を重ねて、2年前からお金を集めるといった準備をおこない、村全体が一体となり、祭りや興行を運営していたことも記録から読み取ることができます。
人形の部品や衣装は、江戸(日本橋)と修善寺から調達したという記録があり、江戸からは海路で運んでいますが、運んだ先はなんと松崎町の道部。道部から相当のお金をかけて本柿木村に運んでいます。道部の港へ人形の荷物を運ぶ理由は、そこに人形座があり、人形の荷物をチェックしたのではないかと考えれらます。また、その道部の方から人形の操法を指導してもらったという具体的な話も残っているそうです。
舞台を作るために三島や土肥など伊豆の各地から大工を呼んだり、太夫さんを呼んだり、色々な村から物を借りたりといった、その当時に必要な人を集めることができる力がすごく、このことから、伊豆全体を巻き込んだ地域の総合芸術として人形浄瑠璃をおこなっていたことが分かります。
人形浄瑠璃の興行から分かる地域の底力
人形芝居をやるのには、人形一体が今の価格で300万円位かかることからもお金がかかります。人形浄瑠璃の存在する場所は古くから土地の生産性の高いところで、平安時代の末期の武士団の本拠地と重なることが多いそうです。本柿木は狩野氏の狩野城のお膝元。地域が豊かで高い文化水準があったからこうしたことができると推測できます。本柿木の人形浄瑠璃を支えた財力で考えられるのは、材木と木炭、シイタケなど。江戸との物資でのつながりから、文化的な情報の収集を怠らなかったと考えられ、教育的で好奇心旺盛な人がこの地域にはいたと考えられます。
本柿木村での人形浄瑠璃興行に集まった人の出身村を地図に落とすと、今の伊豆市一円から来ており、偶然かもしれませんが、今の伊豆市になっており、歴史的に必然な合併だったのでは?ということで、このことが今の地域づくりや町おこしにつながる一つのかけらになればとのことでした。
なぜ、柿木にこの人形浄瑠璃について伝承が残っていないのか、もしかしたら残っているかもしれないので、知っていることがあれば教えていただきたいと、三上氏が問いかけたところ、地域の方からは、狩野川沿いに何カ所か「舞台」という字名、柿木に「踊場」という場所があるのだが、何か芸能と関係があるのか?といった質問がありました。
伊豆日日新聞さんにも取材をいただき掲載されていますので
今後の広がりに期待をします。

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