静岡大学東部サテライトだより

静岡大学東部サテライト「三余塾」の記録・お知らせ

20240318 第2回青羽根柿木歴史大学

みんなで歩くと色々な発見が!大きな発見につながるかも

東部サテライト近隣地域の方を中心に、狩野城について学ぶ、ということから始まった青羽根柿木歴史大学。狩野城のことを学ぶためには、まず地域の歴史的、自然的な資源を知ることからと、第1回目は東部サテライトのある「青羽根」地区について、地域の方が先生となり、座学での講義がありました。

その中で「近くに住んでいても、現地を見ないとどこの話なのか分からない。」という声があり、今回第2回目はフィールドワークをおこなうことにしました。この日のルートは、天城小学校近くの狩野道基の祠→青埴神社→焼き場(火葬場)→龍爪神社→東部サテライトという行程。

近隣の方がきれいに管理をしている狩野道基の祠

狩野道基とは、上杉禅秀の乱で鎌倉を追われ伊豆に逃れた足利持氏をかくまい討ち死にした人物。近隣の方により丁寧に祀られています。天城小学校の校庭は「狩野牧」という地名の場所で、かつて狩野氏の軍馬の教練場であったのでは?ということでした。県天然記念物のシダレイロハカエデがある青埴神社は、古くは八幡神社と称していました。青埴とは凝灰岩などが風化してできた青色の粘土のこと。青羽根の古名です。青埴神社の近くには、現在墓石のみが残る了仙院、妙聴寺の跡があります。
ここからは車で細い山道を移動、運転に慣れている人でないとちょっと怖い道です。龍爪神社に向かう道に、昭和25年頃まで使われていた焼き場(火葬場)の跡があります。当時の建物の瓦が散乱していました。ここを見学するために、メンバーの方が前日に草刈りをしてくださいました。

当時の瓦が散乱している焼き場跡

ここでメンバーの一人が大声をあげました。場所が場所だけにかなりビックリし、声のする方を見ると、シカが角をこすった跡がありました。

最初はクマの爪痕かとビックリ!

龍爪神社までは、入口まで車で行くことができます。この道は最近整備されたとのことで、これまでは青埴神社の脇道から徒歩で登るルートだったとのことです。神社の鳥居は、メンバーの方が作ったもので、周りの木々の伐採もその方がおこなったとのこと。そのおかげで、天城連山の雄大な景色を望むことができました。  

小室石?で造られた龍爪神社の拝殿

龍爪神社の祭神は大国主命。「弾よけの神様」として信仰されています。拝殿の扁額は三島の漢学者、山口余一の書とのことです。拝殿奥の神殿は、伊豆石の「小室石(おむろいし)」なのでは?と盛り上がるメンバー一同。小室石は伊豆石の中でも高級品で、調べると伊豆の国市神島が産地とのこと。狩野川大橋近くの棒石山のことなのか?これは気になります。

弓矢の教練場?長さ約30mの堀

そして神殿の奥、前回の座学で「矢積平という地名から、弓矢の教練場だったのでは?」という疑問のあがった場所で、長さ30m、幅4mくらいの堀が!当時の弓の飛距離から見ても、弓引き場と考えてもおかしくはないと思いました。

堀切?写真だと分かりにくいので↓

そしてそして、さらにその奥に堀切?と盛土による地形がありました。地形が分かりやすいように、点群データから地形図をつくってみました。

静岡県のオープンデータより作成

この場所は、ぜひ詳しい方に調査してほしい、という話になり、下山。お昼を東部サテライトで食べて、午後からは座学。
前回は、青羽根という地域を知るために小字についての説明だったので、今回はお隣の柿木の小字について、狩野城ガイドクラブに所属している方が説明してくださいました。
柿木には狩野城があり、平安末期「狩野介」と称した狩野茂光を源頼朝が度々訪れていたことから、頼朝伝説のある場所があります。馬を洗ったとされる跡(柿之元の馬洗淵)や、月見をしたと言われる狩野城近くの月見山 など。
今回、狩野城落城の際に追われた七人の女郎が身を隠したとされる「七人女郎の洞窟」については、足場が悪いとのことで、見には行けなかったのですが、その伝承については、七人女郎の手鏡というものがあるが、江戸時代の物で時代が合わない、どこの地域にもある逸話ではないか?との見解も。いずれにしても、洞窟を見てみたいという話になりました。

午後は「柿木」地区についてを学ぶ座学

洞窟のような自然地形があって、「人が隠れられそう」なところから、そのような伝承が生まれたのか、それは謎ですが、例えば、七人女郎が追われて最期を迎えた場所では、川が血で赤くなったという伝承があり、付近には赤い土が露頭している場所があるそうです。こうしたことを調べるのも面白いですね。